島津義弘が時代を斬る(島津義弘シリーズ)

秀吉最後の軍事行動、二度にわたる朝鮮の役の最中に天下人、豊臣秀吉がこの世を去る。
ここから、この戦国時代シミュレーション小説の物語が始まる。


第1作:薩摩の風に送られて

このまま行けば、必ず家康が天下を取り、徳川の独裁政権となるは必定。 そこで、島津家当主、島津義弘がこれからの国際社会を考慮した日本の設立を考えた。 三者の均衡を保ち、互いに牽制し合い、独裁を防ぐ。 それが天下三分の計こと、日本三分の計である。 そのパートナーとして、奥州の独眼龍、伊達政宗を選んだ。

第2作:南海の嵐

千六百三年、豊臣政権に替わり新しい幕府が誕生した。その名を江戸幕府という。
織田信長、豊臣秀吉と続いた安土・桃山時代が終わり、徳川家康が江戸幕府の初代将軍となった。 島津義弘の描いた構想、天下三分の計こと、日本三分の計にて、日の本は大きく三つに分かれる。
一つは家康の中央政権。いわずと知れた幕府の管轄区である。 北は伊達政宗率いる奥州独立連合を中心とした北部政権。 南は島津家を中心とした南部政権である。
日ノ本を三つに分けた戦い、慶長の動乱より三年、南部政権に想わぬ敵が動き出す。


天下人、豊臣秀吉と島津家の歴史

 1.九州三国志

 天正14年(1586)、関白秀吉は中国の毛利、四国の長曾我部を降し 徳川家康をも従えた。
 ほぼ全国制覇である。
 残るは関東の北条氏政、奥州の伊達政宗、 そして九州の島津義久、義弘のみとなった。
 これまでの九州は、豊後の大友宗麟をはじめ、肥前の竜造寺隆信、 薩摩・大隈の島津義久、義弘を中心に三国が凌ぎを削り後に九州三国志と 謳われるようになる。
 その後、状況は一転。
 均衡を破ったのは島津であった。
 島津は長男当主の島津義久を筆頭に、島津義弘、島津歳久、島津家久と 稀代まれにみる名将で島津四兄弟と恐れらた。
 義久は本国にてどっしりと構え、義弘は前線にて指揮をとる。
 薩摩から大隈、日向の三州を統一し、九州三大勢力の一角を占める ほどに成長。
 そして、九州最大勢力である大友宗麟と雌雄を決する日が訪れた。
 「耳川の戦い」である。
 数倍の大友軍を敗走と見せかけ後退を繰り返す島津軍。
 ”島津恐れるに足らず”
 大友軍は勢いに乗り島津軍を追撃した。
 しかし事態は急変。
 耳川を超えた大友軍を島津軍が急反転し反撃を開始する。
 残る島津隊も側面から大友軍に襲い掛かる。
 世に言う”釣り野伏せ”である。
 精強な薩摩兵。
 大友軍を蹴散らすにはそう時間は必要としなかった。
 大友宗麟は豊後に敗走。
 島津軍のあまりにも完璧な勝利であった。
 その後、島津義久は義弘とともに快進撃を続けついに、 竜造寺隆信を沖田畷の戦いで破り、九州のほぼ全土を制覇する。

 2.天下人、豊臣秀吉との対決

 島津義久、九州をほぼ制覇。
 この報は直ちに秀吉に届けられた。
 大友宗麟が秀吉に泣きついたのである。
 「ただちに、九州に兵を送る」
 秀吉の行動は素早かった。
 九州征伐のはじまりである。
 その数十万以上と伝えられ、中国の毛利、四国の長曾我部など 西国大名を中心に大軍団は九州に上陸した。
 「猿面間者如き男が」
 島津軍は戦意旺盛である。
 天正14年(1587)12月。
 仙石久秀を軍官とし四国勢が九州戸次に上陸。
 ついに豊臣勢との戦闘が始まった。
 豊臣方は仙石久秀、長曾我部元親、信親親子、十河存保などを中心に 四国勢が中心である。
 一方島津勢は島津家末弟の島津家久を中心に迎え撃つ。
 島津の戦術。
 いつもの如くお家芸”釣り野伏せ”である。
 お約束通り一旦は攻めかかるものの、途端で引く。
 釣り野伏せは弱兵では使えない。
 強兵の島津軍団であるからこそ使える戦法であり、 敵はそれにかかるのである。
 案の定、仙石久秀率いる、仙石勢が突撃してきた。
 仙石久秀は気が短く武功派であり、うってつけの相手であった。
 長曾我部元親であればそうはいかない。
 元親は歴戦の将であり、そうやすやすとは引っかからない。
 南海の雄たる所以である。
 突出した仙石勢を救うため、他の部隊も仕方なく突撃した。
 しばらくの激戦が続き、こともあろうか仙石久秀が早々と敗走を開始。
 変わりに災難だったのは長曾我部元親の嫡男、信親率いる長曾我部勢であった。
 結局信親は討ち取られ、これが後に元親の人生を大きく変えることになる。
 島津勢は果敢に戦った信親の遺体を長曾我部家に返し、称えた。
 戦国、男の美である。
 結局この戦いは島津軍の勝利と終わったが、 皮肉なことにさらに豊臣軍の底力を引き出すことになってしまうのであった。

 3.第二次九州征伐

 第一次九州征伐の敗戦のため、秀吉自らが本腰を上げた。
 秀吉軍は大きく二方面より九州を進軍し、秀吉本体は熊本、八代より、 別働隊である秀吉の弟、秀長は豊後、府内より薩摩を目指した。
 その数二十万と伝えられる。
 あまりの大軍に島津義弘は支えきれずと判断し、豊後から撤退を始める。
 そして日向高城をめぐり戦いが始まった。
 精強で知られる島津忠長も援軍に現れたが、高城も支えきれず、 島津軍が薩摩へ撤収。
 八代からも秀吉本隊が進み、そしてついに薩摩本国を脅かす状況となる。
 迷う当主、島津義久。
 島津義弘はじめ、義久を除く薩摩精強軍団は徹底抗戦の構えを崩さない。
 秀吉軍がせまる中、義久決断の時が迫る。
 八月、秀吉は肥後佐敷から出水に入った。
 「一層の事戦って果てるか」
 「ここまで堂々と関白相手に戦った事で十分ではありませぬか」
 義久と家臣とのやり取りが続く。
 「川内へいこう・・・」
 義久は遂に決断した。
 既にここ川内には、秀吉軍が入っており、泰平寺を本陣としている。
 そして、泰平寺にて義久が秀吉の前に進んだ。
〈こんな男が関白か・・・猿〉
 義久はプライドが高く、心底、力の違いを悔やんだ。
 秀吉のこたえは薩摩一国のみの安堵であった。

 4.島津の意地

 なんと秀吉から安堵されたのは薩摩一国のみであった。
 義久はお家存続のためやむを得ず降伏したが、  義久は悪感を覚えた。
 弟達の行動である。
“義久降伏”
 それは通常であれば、島津家の降伏を意味する。
 義久の悪い予感が的中した。
 義弘以下、歳久、新納忠元など屈強の者達が徹底抗戦の構えを崩さなかった。
 義弘の狙いは薩摩のみではなく、大隈、日向の安堵。
 これを死守線と考えた。
 九州制覇戦においても実質総大将であった義弘が屈服しなければ、 島津の戦いは終わらない。
 結果、義弘は粘り続け秀吉から三州の所有を認めさせた。
 これで戦いは終わったと思いきや、さらに波乱が起きる。
 義弘が降伏した後も、三男歳久が徹底抗戦の構えを崩さなかったのである。
 歳久としては、もともと秀吉との戦いは無謀と判断していた。
 しかし、一旦戦ったのであれば最後まで戦う。
 しかも、後継となる忠隣をこの戦で亡くしている。
 やはり考えは一つ、徹底抗戦であった。
 その意味としては、守護代の兄義弘とは異なっていた。
 お家を第一に考えなければならない立場、当主義久。
 お家をさらに考えた、結末を優位に導く義弘。
 純粋に武門の意地を通しつくす歳久。
 三者三様である。
 歳久は、秀吉の再三に渡る拝謁警告を歳久は無視し続けた。
 「誠頑固者とは聞いておったが」
 そして事件が起きる
 秀吉は、わざと大軍にて宮之城を通過し、歳久を屈服させるつもりでいる。
 そして、山崎を通過しようとしたその時。
 歳久軍が秀吉軍斥候を斬り、奇襲をかけた。
 秀吉は慌てなかったが、後にこの事件が義久を巻き込み島津家に悲劇を
起こすことになるのである。(戦国物語探訪シリーズ:北薩戦国物語参照)

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